偶然の一致でもなんかブーム?
先日、なんとなく思いついて中村彰彦の「遊撃隊始末」を読み返した。
そしたら、丁度その頃某様の日記に「林の殿の真武根陣屋に行ってきた」という記述があった。
おや~、これは何かの虫の知らせ? なんて思っていたら、今日ネットのニュースでこんな記事があった。
中国の不正に正義を貫くパラオと主権国家の「一分」
産経ニュース
この記事のなかで、盛大に請西藩と殿のことが書かれていて、殿、なんか来てるよ! と嬉しくなった。
記事抜粋
軍隊も無(な)い太平洋上の小さな島嶼(とうしょ)国家パラオが、強大な軍事力でアジア・太平洋の島嶼・海洋資源を次々に不法占拠する中国に対し正義を貫いた。違法操業を犯した中国漁民を「法に基づき起訴した」のだ。しかも、警告を無視した中国人を結果的に射殺して尚、正当性を譲らない。この報に接した瞬間、戊辰戦争で「武士の一分(いちぶん)=面目」を貫いた請西(じょうざい)藩(現千葉県木更津市)第3代藩主・林忠祟(ただたか)(1848~1941年)に、唐突にも思いを馳(はせ)せた。中国を恐れ、その違法に目をつぶるわが国はパラオと忠祟に学ぶがよい。(SANKEI EXPRESS)
パラオと忠祟の気概
請西藩は1万石の小藩ではあるが、林家当主は正月元旦に、江戸城内で将軍から最初に杯と兎(うさぎ)の吸い物を賜る栄誉に浴する。林家の祖が、戦(いくさ)に敗れ流浪していた徳川家の遠祖を匿った際、貧しくて十分なもてなしができなかった事(こと)から冬の寒中、猟に出てようやく射止めた兎を吸い物にして饗応(きょうおう)した故事に因(ちな)んでいる。青年大名・忠祟の脳裏には、この故事がうっとりするほどの誇りとなって刻まれていたに違いない。
大政が奉還(1867年)され、時あたかも風雲急を告げていた。藩論は抗戦・恭順両派に分かれ伯仲した。そうした中、旧幕臣の一軍が合力(ごうりき)を頼みに来るや、藩主自らが藩士70人と共(とも)に脱藩を図り合流した。再び自藩に戻らぬ覚悟で、陣屋を焼き払っての出陣だった。新政府は林家を改易した。
関東各地で新政府軍と交戦、さらに東北地方へと転戦した。しかし、旧幕府方の奥越諸藩は次々に降伏・恭順していった。忠祟も「徳川家存続」の報を受け、戦の大義は果たされたと思量し、新政府に下った。
驚くべき事に、忠祟は昭和16年まで「最後の大名」として生きた。92歳で天寿を全うする間際、辞世を求められるや「明治元年にやった。今は無い」と断っている。「降伏時に、切腹覚悟で詠んだ」との意だが、こんな辞世であった。
「真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ」
歌には、新政府軍の手先となり、旧幕府軍追討に加担した紀州・尾州・彦根など御三家や譜代筆頭に対する侮蔑と怒りが込められている。忠祟の凄烈でいて廉潔な男振り・武者振りには惚(ほ)れ惚(ぼ)れする。「主権国家の一分」を貫いたパラオにも、同じ爽快(そうかい)さを感じてしまう。
林の殿!
時代はあなたに来たかも!
で、自分も真武根陣屋に行ってみたいと思ったけれど、某様のレポートを読む限り、車じゃないと大変そうなのでがっかりしてみる。


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